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月のホタル

郷愁のホタル:

ゲンジホタルの切手
(日本−自然保護シリーズ:1977)
 初夏の暗やみに交錯するホタルの光を観賞する習俗は、日本独特のものである。日本産ホタル類のうち、光の強さをもって格別に知名度が高いのはゲンジボタルで、 かつてはその名所が各地にあった。特に、京都の宇治や近江(滋賀県)の石山はよく知られ、江戸時代には、シーズンになるとホタルの観光船が出て、 カゴに入れたホタルまで売られたという。

 現在も江戸時代から引きつがれたゲンジボタルの名所が、全国で10カ所ほど国の天然記念物に地域指定されている。しかし、周辺環境の激変でいずれも昔日の面影はなくなってしまった。 それでも、ホタルを愛する日本人の心まで変わったわけではないようである。ホタルが少なくなる一方で、ホタルを守り、増やそうという運動もまた各地で盛んである。

発光のしくみ:

 よく知られているように、ホタルの光は仲間どうしの性の信号として発達してきた。光の点滅のパターンが種類によっても、雌雄によっても異なり、 暗やみの中で同じ仲間の異性間の交信として、ホタルたちはこれをはるかな太古から利用してきた。ただ、ホタルの光の意味についてはまだ不明の部分がある。 生殖行動に関係のない、卵や幼虫や蛹まで発光するものが多いからである。これを、適応上の特別な意味がないとする見方もあるが、ある種のホタルからは強い毒物質が検出されている。 あるいは、捕食者たちへの危険信号としても光を利用しているのかもしれない。

 いずれにしても、熱がなく、最少のエネルギーを光に変えるホタルの冷光を人工的に作り出すことは科学者の夢でもあった。いまでも、本当の意味での実用的な「蛍光灯」はできていないが、 その発光のしくみについては、かなりくわしくわかってきている。つまり、光はホタルの尻の窓のように透明な発光細胞層で作られる。 この部分にあるルシフェリンという発光物質が、ATP(アデノシン-3-リン酸)のエネルギーとルシフェラーゼという発光酵素の働きによって、 酵素と化学反応を起こして発光する。

 ホタルという自然の発電機が実在し、その部品もそろってきたが、それを組み立てて、人工の発電機を作るまでにはまだ時間がかかりそうである。 しかし、近年のバイテク技術の発達は、発電機のしくみとは別の方向で‘部品’に新たな光を当てはじめている。

光るタバコの苗:

光るタバコの苗
(大橋祐子氏原図)
 1980年代に、カリフォルニア大学の研究陣がホタルから発光酵素の遺伝子を取り出し、これを遺伝子工学的な手法でタバコの葉に導入することに成功した。 そしてこの葉の組織を人工培養して完全な植物体に育て、光るタバコの苗を作り出した。こうしてホタルは、たとえ機能の一部とはいえ、「植物に変わった虫」の第1号になった。

 この研究成果が発表されたとき、さすがに大きな話題を呼んだが、その一方で、こんな研究が何の役に立つのかと皮肉な声もあった。もちろんこの研究には、 動物界と植物界の壁を破り、動物の遺伝子の植物体内での働きをしらべるという、きちんとした目的があった。しかし、それにもまして、 昆虫の多彩な機能を植物に導入する道を開いたことは大きな成果であった。

 事実、ルシフェラーゼの利用は新たな展開を見せつつある。たとえば、植物の病原菌にこれを組み込み、タバコやイネに接種して、 植物の体内での病原菌の増殖や移動を追跡するような手法はすでに一般的な技術になりつつある。

発光酵素の生産:

ATP測定キットの
大腸菌培地上での発光

(キッコーマン株式会社提供)
 発光物質のルシフェリンは、化学合成で大量に生産することができる。しかし、発光酵素のルシフェラーゼの方は、ホタルなどの発光生物から取り出すしか入手の方法がない。

 最近、日本の食品メーカーのK社が、ルシフェラーゼの大量生産に挑み、独自の技術でそれに成功している。もちろん、ホタルを大量増殖してルシフェラーゼを集めるのは、 コスト的にもできない相談である。そこでまず、ゲンジボタルからルシフェラーゼの遺伝子のコピーを手に入れ、遺伝子工学的な手法で大腸菌の遺伝子につないだ。 大腸菌はたった1日で30万倍にも増える。こうして遺伝子を組みかえられた大腸菌は、増殖して大量のルシフェラーゼをみずから生産するようになった。

 前述のように、ホタルの発光にはルシフェリンとルシフェラーゼとATPが必要である。ATPは地球上のあらゆる生物に含まれ、エネルギーの供給源として重要な役割をになっている。 ルシフェリンとルシフェラーゼを処理してそれが発光すれば、そこにATPがあることを意味し、ATPがあることは生物が存在していることの証拠になる。

月のホタル:

 ルシフェラーゼの大量生産に成功したK社では、一連の成果を「ATP測定キット」として商品化に結びつけた。ルシフェラーゼによる発光検出法は、 目に見えない微生物でも確実に検出できるし、その発光の強弱であるていど微生物の量までわかる。微生物の濃度が高いときの発光は、 十分肉眼でとらえることができるし、濃度が低く、光が目で見えない場合でも、微光を測定できるルミノメーターという機器が目の代わりをしてくれる。

 ルシフェラーゼのこのキットは、これから多方面での利用が期待されている。特に、水の汚染が大きな問題となる食品工場や病院などでは、 汚染微生物の検出に威力を発揮することであろう。

 ルシフェラーゼの大量生産をやっているのは大腸菌である。もはや生身のホタルは介在せず、その光る機能だけがひとり歩きをはじめたのである。 これならばホタルの愛好家も異議のないところであろう。

 1966年に、アメリカが打ち上げた月ロケットにもルシフェラーゼが積みこまれたという。月に生物がいるかいないかを検定するためである。残念ながら、 月面でルシフェラーゼが発光したという話は伝えられていない。しかし、ホタルこそは月へ行ったはじめての虫−−という表現は、ちょっと飛躍のしすぎであろうか。

[インセクタリゥム,VOL.28,NO.10,第334号(1991)]



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