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農民がつくった「愛知用水」

〜財産なげうち国動かす〜


久野庄太郎と浜島辰雄の二人三脚



 今年の6月も「愛知用水講」の水源地詣でがあった。講のメンバーは100人ほど。みな尾張・知多の農家で、もうかなりの年輩だ。 愛知用水の水源は木曽御嶽山の中腹にある牧尾ダム。バスで3時間の道のりだ。

 ここで用水建設の殉職者など90余名の物故者を慰霊し、ダムに沈んだ186戸の人々へ感謝の念を新たにする。30年以上続いているこの講の発起人は久野庄太郎といった。

 昭和36年に完成した「愛知用水」を知っている人は多いだろう。だがそのほとんどが、この事業を〈お役所やった〉と思っているに違いない。 たしかに建設は愛知用水公団(現在は水資源開発公団に統合)だが、そこに至るには地元農民のなみなみならぬ労苦があった。その中心人物が久野である。

 久野は現在の知多市の農家の生まれ。愛知用水の構想を思いついたのは昭和22年、46歳の時だった。この年、同地方は大干ばつにみまわれ、 秋の収穫は皆無に近かった。

こんな水揚げ風景も、今では過去のものになった  絵:後藤泱子  「知多農民の夏の労働の半分は水くみ作業だった。ため池が満水になるのは3年に一度。貧農は命がけで水をくむわけで、反当たり、 おけで平均3千杯くむと全面に行き渡る」とは、久野の実感である。

 昭和23年春、久野は活動を開始する。用水建設の必要性を説き、協力を求めて各地を回った。その久野の活動を知り訪ねてきたのが、 安城農林学校教諭の浜島辰雄である。


 浜島は同じ水不足地帯の豊明市の出身。子供のころ水番も経験し、水不足のつらさを知る彼は勤務の合間に現地を踏査し、独自の路線計画図を作っていた。 ちなみに、この路線案は現在のルートとほとんど違わないという。

 二人ははじめて会った時から意気投合、翌日から揃って実地調査に出かけた。もちろん手弁当だった。彼らが半年がかりでつくった計画案は、 以後の運動の強力な武器になる。おかげで10月には受益市町村が参加した「愛知用水開発期成会」が結成された。

 昭和24年からは中央への働きかけがはじまる。その資金のため、久野は自分の全田畑を売り払ったという。期成会の熱意は県や国を動かし、 ついに世界銀行の資金援助も約束された。昭和30年には愛知用水公団が発足する。3万ヘクタールの耕地を潤し、中京圏の上水・工業用水をまかなう愛知用水事業はこの時動きだした。

 とかく国主導がめだつ開発事業で、愛知用水だけは別だ。久野の行動力と浜島の技術的裏づけ。そして二人を核にした期成会の活動がこの大事業の牽引力になった。 愛知用水講はその時の同志の同窓会でもあるのだろう。

 浜島は今も元気だが、久野は平成9年に亡くなった。享年96歳。生前から献体運動に熱心だった彼の遺体は、遺言通り医学研究に供された。 献体も用水建設で犠牲を強いた方々への、〈せめてもの報恩〉であるという。すがすがしい一生である。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1997年12月10日 より転載


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