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バイオの先駆、ウイルスフリー農業を築いた人々
研究者のバトンタッチで成果

〜今では全国各地に増殖施設〜


バイオを実用化した人々



 フランス国立農業研究所はベルサイユ宮殿からそう遠くない所にある。昭和31年、一人の日本人がここにモレルを訪ねた。農林省研究調整官後藤和夫である。 モレルについては前回も述べた。ウイルス病にかかったダリアの茎頂組織を無菌培養して、世界ではじめてウイルスフリー苗を創った病理学者である。

 モレルの研究を目(ま)の当りにして、後藤は深く感動した。野菜などでウイルス病の蔓延に手を焼いていたわが国にとって、これは大変な福音だったからである。 情報はすぐ農事試験場の森寛一に伝えられる。森研究室の浜屋悦次らによって、サツマイモ、イチゴなど12作物のフリー株ができるまでには、 それから10年が必要だった。わが国におけるウイルスフリー農業の事始めである。

 だが、ウイルスを除いても作物に抵抗性がついたわけではない。畑に戻せば、やがて再汚染してしまう。無毒のまま増殖した苗を、 農家に手渡すシステムづくりが必要だった。このシステムがもっとも早く完成したのはジャガイモである。昭和41年には嬬恋(群馬)の原原種農場でフリー種いもの増殖に成功、 全国の採種農家に配布された。

 だが、ジャガイモのような国の直轄事業を除き、1番早くフリー種苗を農家に届けたのは埼玉県のイチゴであろう。昭和47年には、 すでに県内農家にフリー苗を提供している。

ウイルスフリーのイチゴは果粒が大きく色合いもよい  絵:後藤泱子  埼玉県では戦後水田裏作にイチゴが導入されたが、30年代後半から生育障害や減収が目だちはじめた。県園芸試験場の水村裕恒らが調べたところ、 ほとんどがウイルスに侵されていることがわかった。昭和39年、県はフリー苗育成をめざし、原原苗事業を開始する。栽培農家の「埼玉いちご連合会」の要請が県を動かす大きな力になった。

 イチゴのウイルス病はアブラムシによって伝搬される。水村らは再汚染を防ぐため試験場内に寒冷しゃ被覆の原原苗圃を設け、その中でフリー株の育成に努めた。 当初は農家の畑から未汚染株を見つけ、選抜増殖していたが、昭和45年からは組織培養による本格的なフリー系統に置き換えていった。 園試の研究者たちが組織培養法を習得し、自前のフリー苗ができるようになったからである。

 増殖したフリー苗は普及所・農協などが管理する各地の原苗圃で再増殖され、普及に移された。苗が出はじめた頃を「よく農家から苦情がきたもんです。 生育が良過ぎ、かえって作りにくいといってね」と、水村は回想する。苦情と裏腹に、2〜3割も増収するフリー苗は以後急速に伸びていった。

 昭和49年、農林省は埼玉県などの例を参考に優良種苗増殖事業を開始した。今では全国150カ所に増殖施設ができ、野菜・花・果樹などの優良種苗生産が進められている。

 フランスから日本へ。基礎から実用化、現場の農家まで。技術革新は研究のバトンタッチがうまくいった時に生まれる。これはその好例だろう。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1996年1月1日より転載


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