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連携プレーが生み出したコシヒカリの奇跡(1)
空襲下での誕生


石墨慶一郎らが試験



 去年の冷害のせいで、この春はいろいろな外国米を食べさせられるハメになった。

 おかげで「やっぱり日本の米はおいしい」と、ほとんどの日本人が再認識したにちがいない。

 日本の米の中でも、とりわけおいしいと評判の高いのはコシヒカリだろう。ところがそのコシヒカリも、ここに至るには随分と数奇な運命をたどってきた。

 コシヒカリの交配は敗戦直前の昭和19年、新潟県農事試験場(長岡市)にあった農林省指定試験地においてである。多収で良食味の農林1号を父、 同じく良食味の農林22号を母にした毛並みのよい子の誕生であった。

 ところがそれから苦労がつづく。当時試験地の職員はすべて戦場に赴き、高橋浩之主任だけが職場を守っていた。

 20年には長岡も空襲にあい、高橋の宿舎まで炎上した。その年は試験どころでなく、戦後の21年になってやっと雑種一代の播種ができたという。

 雑種三代の23年、この系統は里子に出される。里親は新しく品種改良をはじめた福井県農事試験場で、最初岡田正憲が、26年以降は石墨慶一郎が試験を担当した。 貰われた年の6月、福井大地震があり、試験地も被害を受けた。

福井県農業試験場に建つコシヒカリの記念碑  絵:後藤泱子  田植直後の苗は土砂に埋もれ、浮き上がり、試験中止に追い込まれた系統が多かった。ただし、この系統は無事で試験を継続できたという。 強運の子だったのだろう。

 悪いことも多かったが、良いこともあった。できたばかりの試験地で、この里子は随分大切にされたらしい。両親から継いだ良食味の特性を特別大切にしてもらえたからである。

 体験者なら誰しも思うことだが、あの腹ぺこの時代においしい米を選ぶなど大変な卓見である。「倒れやすく、いもちにも弱かったので捨てようかと迷いながら、 米質と熟色のよさに魅かれて、もう1年と検討をつづけた」と石墨は回想している。

 28年から奨励品種候補として各県での試験に供されたが、評価はイマイチだった。やはり倒伏といもちを心配されたのだろう。

 この問題児をあえて新潟県が拾い上げる。31年に奨励品種に採用、ここで正式にコシヒカリと命名された。

 今では全国で56万ヘクタール、史上最高の作付面積をもつ超大物品種だが、この英断がなかったら、今日のコシヒカリはなかっただろう。

 コシヒカリを創った高橋も岡田もすでにいない。石墨は農業にもどり、今も1.4ヘクタールのコシヒカリ栽培に励んでいる。

 昨秋、石墨から私信をいただいた。「今年の低温にはコシヒカリ程度の耐冷性では役立たず、農家に申訳ない気持ちで一杯です」

 事実は、コシヒカリとその血を受けた品種のもつ耐冷性が、随分昨年の冷害軽減に貢献しているのだが。大仕事を終えてなお謙虚な、育種家の志に触れた気がする。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1994年9月7日より転載


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