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泡盛で乾杯、ウリミバエの根絶
〜625億匹の不妊虫放飼〜



 「農林省の方々に、お願いいたします。せめて殺虫剤は虫が出てから使うように農協を指導して下さい。それから、もう一度、 害虫に強い作物の作り方について考えて下さい。」昭和49年10月から朝日に連載された有吉佐和子『複合汚染』の一節である。 農薬づけ農業に警鐘を鳴らした最初の作品だった。

 同じ年の11月、遠く離れた沖縄農試八重山支場で垣花廣幸ら3人の研究者が泡盛で乾杯していた。ウリミバエの大量増殖実験の成功を祈ったのである。 一見、無関係にみえるこの2つの事件は平成5年に結びついた。沖縄や奄美農業を長い間苦しめてきたこの害虫が、殺虫剤なしに根絶できたからである。

 ウリミバエは東南アジアに広く分布し、ウリ科など100種以上の植物を食害する大害虫である。大正末に八重山に侵入し、奄美まで北上していた。 だから植物防疫法で、同地産の野菜・果物は内地移送ができなかった。

 ウリミバエが根絶できたのは「不妊虫放飼法」のおかげである。この方法はアメリカのニップリングによって創案され、家畜の害虫防除に適用された。 「放飼法」とは…。

ウリミバエ(体長8〜9ミリ)と移送可能になったニガウリ  絵:後藤泱子
 まず、増殖したハエの雄に放射線を当て生殖能を失わせる。この虫を大量かつ反復して野に放つ。放たれた不妊虫が野生虫と交尾しても子はできない。 その分、野生虫同士の交尾の機会は少なくなり、世代とともに虫は減り、絶滅に至る。じわりとボディーブローが後で効いてくる巧妙な防除法である。

 〈放飼法でウリミバエ根絶を〉 昭和47年、沖縄の本土復帰とともに、この作戦は実行された。大変なお金と多くの協力が必要である。 外国では失敗例も多い。あえてこの作戦を断行した関係者に敬意を表したい。

 せっかくの放飼法もハエを常時大量に供給できなければ話にならない。その人工飼育の実験は、熱帯農研石垣支所の杉本渥室長の手で進められた。

 失敗の積み重ねの末できた基本技術を、大量生産にむすびつけたのが、前述の垣花たちだった。安上がりな人工飼料の作製、野外に近い飼育条件や産卵場所の工夫など、 苦心の結果生まれた成果だった。

 乾杯の時、週100万匹だったハエの生産量は、根絶直前には2億匹をこえていた。那覇の農試構内には、今もミバエ工場の大きな建物が建つ。 根絶までに沖縄と奄美で、625億匹からの不妊虫が放たれたという。

 根絶にはさらに多くの技術開発が必要だった。放射線照射による不妊化技術。不妊ハエを遠くに運び、効率よく放つ技術。不妊ハエの放飼数を決めるため、 野生ハエの数を推測する技術、等々。難問を克服できたのは、研究者だけでなく、農協も市町村も、みんなが総力を上げた成果であろう。

 農薬は使わない。特定の虫だけが減り、他の虫には影響しない。ミバエ根絶の技術こそ、有吉のいう「害虫に強い作物の作り方」だろう。 地下の有吉は今どう思っているだろうか。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1996年6月12日 より転載


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