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村がつくった「南高(なんこう)」ウメ


〜農家の優良樹を選抜、
品種名は調査に協力した南部高校に由来〜



 春になって、梅の花に誘われたわけでもないが。自力で実梅の品種を作り上げた、ある村の話をしておきたい。今では日本一の梅の里、 和歌山県南部川(みなべかわ)と、この村が育成したウメの品種「南高」である。

 敗戦後の昭和25年のこと、同村に「梅優良母樹調査選定会」という珍しい会が発足した。提唱者は上南部農協(現・JA紀南)の谷本勘蔵組合長。 昔からこの地方はウメの産地だが、〈これからは不揃いな実生ウメでなく、品質の揃った優良品種の統一生産が必要だ〉と、品種づくりを呼びかけたのである。

 選定会には村と農協、それに地元の南部高校が参加した。早速、農家に呼びかけ自慢の樹を募ったところ、48点の出品があった。

 調査には高校の竹中勝太郎先生と生徒たちが当った。収量・品質・隔年結果性などに着目、5年間の選抜調査がつづけられた。昭和26年は14点、 27年は10点と年々しぼり、昭和30年には最終的に7点を優良系統に認定した。その一つが南高である。

大粒で赤く色づいた「南高」ウメ  絵:後藤泱子  ところで南高は、同村の農家小山貞一が選定会に出品したウメだった。小山はそのウメの穂木を同村の高田貞楠から譲り受け、梅園にまで育て上げていたのである。

 話は昭和6年にさかのぼる。兵隊から帰り、農業をまかされた小山は、ウメづくりに生涯をかけようと決意した。早速、苗木さがしからはじめたが、 親戚筋の高田が良い樹をもっていると聞き、出かけていった。そこで目をつけたのが1本の樹である。

 豊産で果実が大きく、桃のように赤く色づいていた。この樹がほしい。小山の熱心さにうたれた高田は「お前は年も若いし将来ある男や」と、 快く穂木を分けてくれたという。その木から生まれたのが、後の南高だったわけである。

 選定された7系統の中でも、南高はとくにすぐれていたのだろう。噂を聞きつけ、村のあちこちから穂木を貰いにくる人が後を絶たなかった。 請われるまま分けていたところ、今ではこの地帯一帯が南高で埋め尽くされるまでになった。

 昭和40年、南高は品種として評価され、種苗登録された。登録者は最初の発見者を称え、高田貞楠になっている。 品種名の「南高」は調査に協力した南部高校の生徒たちの労に報いたものだという。

 平成6年の全国ウメ栽培面積は1.6万ヘクタール。うち和歌山県が4千ヘクタール、その7割を南高が占める。〈技術開発は試験場まかせ〉の世の中だが、 独自に優良品種を作り上げたこの村の快挙には、心からの拍手を送りたい。

 半世紀の昔、将来を見通してウメの改良を決意した農協や村の幹部。調査に汗した高校の先生と生徒たち。快く母樹を提供してくれた精農家たち。 南高はこうした人々の偉業を称えて、今年も豊かな実りをもたらすことだろう。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1997年3月12日 より転載


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