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戦後飢餓を救った「水稲農林1号」

〜 並河成資、死後の栄光 〜


  もし国民栄誉賞が昭和20年代にあったとしたら、間違いなくこの人にも贈られていただろう。「水稲農林1号」を育成した新潟農試・並河成資(なみかわ なりしげ)技師が、 その人である。

  「農林×号」という名の品種をご存じだろう。農林水産省の試験場や指定試験地が育成した農作物には、みなこの名がついている。大正14年に品種改良の全国ネットが完成した時から、 この命名法が採用されるようになった。ただし今は、より親しみやすい別名がつく。例えばコシヒカリ。水稲農林100号というのが正式の登録番号である。

  すべての農作物の中で、最初に登録番号がついたのが水稲農林1号である。昭和6年の育成だが、並河らがこの品種を手がけたのは昭和2年、雑種5代の時からだった。

イラスト

稲の品種改良は、細分された苗代に種籾をまくことからはじまる
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
  交配地から送られた188系統から以後6年間をかけて選び抜き、最後に残ったのが農林1号である。選抜眼がいかに確かだったかは、その子孫からコシヒカリ・ササニシキなど大物品種が続出したことからもよくわかる。

  今では嘘のようだが、昭和初頭の北陸米は<鶏(とり)またぎ米>といわれるほどまずかった。安くて良品質の台湾米に圧され、米市場でも不評だった。 台湾米より出荷が早く、品質のよい米がほしい。要望に応(こた)え登場したのが農林1号だった。早生で良品質・良食味、その上多収とあれば、農家はもちろん市場にも歓迎され、 急速に普及していった。昭和16年には北陸・東北を中心に17万ヘクタールにまで達し、10〜20%の増収をもたらしたという。

  とはいえ農林1号が真に名を上げたのは、敗戦直後の食糧危機の時である。昭和21、2年の端境期に、北陸から送られてきた早場米がいかに飢餓におびえる国民の救いとなったことか。 農林1号の名は救世主のように国民に知れわたっていった。

  飢餓も遠のいた昭和24年、1枚のビラが北陸・長野の農家に配られた。「故並河成資氏のために、あなた方の水稲農林1号の一握りを」。実はこの時、並河はすでにこの世に亡かった。 昭和12年、間近に迫った栄光の日をみることなく、突如自らの生命を絶ったのである。享年41歳。戦前の農業研究の抑圧的な雰囲気が、彼を死に追いやったといわれる。 ビラは残された遺族の窮状を見かねて、旧友たちが呼びかけたものだった。

  反響は驚くほど大きかった。<恩人の遺族を救え>の声は、新聞やラジオを通じ全国民に伝えられた。並河を称(たた)えるドラマ・絵本・浪曲ができ、逸話は小学校の教科書にも掲載された。 おかげで農村はもちろん都会からも拠金が集まり、491万円に達したという。

  今思えば、この時1,000万人もの人々の心を揺り動かしたのは、ひとり並河の死だけではなかった。国民は並河に重ねて、飢餓突破に貢献した多くの農業技術者の労をねぎらったのだろう。 技術者と農家・消費者の心が一つになった心温まる歴史の一コマである。
「農業共済新聞」 1999/05/02より転載  (西尾 敏彦)


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