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世界に先がけた遺伝子操作蚕の育成、
田島弥太郎(たじまやたろう)


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 昭和10年(1935)のこと。福岡市内の下宿の廊下で、奇妙な蚕を飼う風変わりな学生がいた。九州帝国大学に入学したばかりの田島弥太郎(たじまやたろう)である。蚕の名は「セーブル」、 東京高等蚕糸学校(現在の東京農工大学)の卒業実験で、彼が作出したエックス線突然変異種だった。アメリカでマラーがショウジョウバエにエックス線を照射し、突然変異を誘発させたときから、 わずか六年後の実験であった。セーブルとは黒貂(くろてん)のこと。黒貂のような暗色縞模様からの連想で、その英名に因み命名したという。〈いずれ役に立つかもしれない〉彼はこの蚕をはるばる九州に持参し、 飼育をつづけていたのである。

 昭和10年といえば、わが国の蚕品種はすでに多収で飼いやすいハイブリット品種に変わっていた。ハイブリット品種は蚕種(卵)を得るのにあらかじめ雌雄を分け、種内交雑を防ぐ必要がある。だが、 それが難物だった。幼虫や蛹の生殖器原基を肉眼で見分けるのだが、特別な専門家の手をわずらわすことが不可欠だった。より簡単で素人でも正確に識別できる方法はないものか。その要望に応えたのが、 ほかならぬ田島のセーブル蚕だった。

 昭和15年(1940)、田島は大学を卒業し、蚕糸試験場(現在の生物資源研究所)熊本支所に勤務していた。これまで飼いつづけてきたセーブル蚕のオスに斑紋のない系統(姫蚕(ひめこ))が出現したのは、そのときだった。 のちに世界をリードする「限性蚕品種」(雌雄で外観の異なる品種)の育成はここからはじまった。

 ここで、蚕の雌雄決定メカニズムについて述べておこう。蚕は54個の常染色体と2個の性染色体をもつ。その2個がZWであるとメス、ZZであるのがオス、つまりW染色体の存在がメスを決定するのである。 田島が創った前記の系統は、メスの性を決定するW染色体に、別の染色体断片のセーブル遺伝子が付着(転座)した結果だった。

 研究の正念場はここからだった。せっかくできたこの系統は雌雄鑑別は容易だが、収量が落ち、健康性に難があった。余分な染色体がついているためである。彼はそこで、雌雄標識以外の余分な付着染色体を切り取り、 実用的な限性蚕品種をつくることに専念する。のちにソビエトの研究者から「原子手術台上の染色体手術」といわれた田島の限性品種づくりの研究は、このときからはじまった。

 今なら、酵素でDNAを希望の場所で切断できる。だが当時はただエックス線を当て、いわば〈(かず)撃ちゃあたる〉式に染色体を切るしか方法がなかった。 ちょうど太平洋戦争が激化し、人手不足が深刻な時期である。限性品種への期待は大きく、目的の蚕を探し求める作業は、夜を日についで行われた。

 昭和18年(1943)、田島は研究をさらに深めるため、大日本蚕糸会蚕糸科学研究所に移る。研究は以後も蚕糸試験場と共同で進められ、翌年にはとうとう限性実用品種第1号の「日117号×支116号」が誕生した。 もっとも、ここまでくると原理だけが活かされ、より識別しやすい半月紋・星状紋のメス(形蚕)と、それのない姫蚕オスという組合せになっている。昭和42年(1967)には、 蚕糸試験場で本格的な限性品種「日131号×支131号」が育成された。我が国の養蚕で、限性品種が主流になったのはこのころからだろう。

 平成8年(1996)現在、農林水産大臣が指定する蚕品種50のうち限性品種は22を占める。今では海外でも限性品種が普及しはじめている。田島は我が国屈指の養蚕先進地、群馬県境町島村の養蚕農家の出身。 本家筋には有名な明治の養蚕家田島弥平をもつ。今年で90歳だが、現在もかくしゃくとして蚕糸研究に情熱を傾けている。

【追記】 田島弥太郎先生は平成21年(2009)7月20日に逝去された。95歳であった。

続日本の「農」を拓いた先人たち(43)限性実用品種を育成、養蚕の流れをかえた田島弥太郎 『農業共済新聞』2003年2月2週号(2003).より転載  (西尾 敏彦)


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