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農民暴動の火だねになった
益田素平のメイガ駆除法


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 日本農業の歴史のなかで、新技術の導入が火だねとなった農民騒動は、おそらくこれだけだろう。明治13年(1880)の「筑後稲株騒動」がそれである。ことの起こりは稲作の大敵メイガ(螟蛾)を駆除するため、 郡役場が新防除法の導入を企画したことにあった。なかば強制的に〈越冬幼虫の潜む稲株を掘りとって焼却せよ〉と指示されたことに、農家が反発したのである。

 今では幻の虫だが、戦前のわが国稲作はメイガのため甚大な被害を被っていた。せっかくの稲田が白穂に変わり、収穫皆無になる。農薬のなかった当時、稲株焼却は名案だったが、それを理解できなかった農家にとっては、 ただ寒空に重労働を強いられる無益な仕事に思えたのだろう。

 じつはこの防除法を考案し、その導入を具申したのは、地元二川村(現在の福岡県筑後市江口)の篤農家益田素平(ますだそへい)であった。 益田は若いときから農家を苦しめるメイガの駆除に心を砕き、研究に没頭していた。「騒動」はショックだったが、それにもめげず、彼は生涯をメイガなど害虫防除研究にささげた。

 益田の非凡さは、彼がメイガの生活史観察から研究をはじめたことである。ふ化後の幼虫が株を伝い、葉をよじ登り、茎に食い入るさまをつぶさに観察している。彼はその観察によって、それまで知られていた年に2回羽化のニカ(2化)メイガのほかに、 年に3回羽化するサンカ(3化)メイガがいることをはじめて明らかにした。間近まで西南戦争が迫っていた明治10年(1877)のことであった。彼はまた、すでにこの時代に、メイガの天敵である寄生蜂の存在を確認し、 その生態観察までしている。

 益田が考案した防除法のひとつに「遁作法(とんさくほう)」がある。とくに九州に多かったサンカメイガを対象にしたものだが、この虫が稲以外には寄生できない習性を利用し、 早稲は10日早く、晩稲は10日おそく田植えすることを提案した。最初にメイガが羽化する5月中下旬に稲をなくし、以後の発生を抑えようとしたのである。大正末に九州各地で試みられた「晩化栽培」はこの遁作法の改良法であった。

 明治28年(1895)、益田はそれまでの研究成果を集大成し、『稲虫実験録』として刊行した。同書で彼は、メイガ防除法として(1)卵・幼虫の捕殺、(2)幼虫の潜入したワラの焼却・たい肥化、(3)幼虫が越冬する稲株の切断、C殺虫灯による誘殺、を奨励している。戦前のわが国のメイガ防除対策は、ほとんどここに網羅されていた。同書で彼は「駆除の十匁は予防の一匁にしかず」と記しているが、現在にも通じる金言である。

 戦後、サンカメイガは農薬の普及とともに姿を消す。昭和40年(1965)代になると、ニカメイガも激減した。こちらはコンバインによるワラ細断、田植機導入による作期の早まりなどが原因とされる。益田が夢みた〈メイガのいない稲作〉は1世紀を経て実現したのであった。

 益田は養蚕・養鶏の奨励などで地域振興にも貢献し、村長もつとめたが、明治36年(1903)、61歳で亡くなった。毎年10月13日の益田の命日には、出生地に近いJAふくおか八女筑後センターにある胸像の前で頌徳祭が挙行され、多くの関係者が集うという。

新・日本の農を拓いた先人たち(24)メイガ駆除法を確立した益田素平、害虫防除にささげた一生 『農業共済新聞』2009年12月2週号(2009)より転載  (西尾 敏彦)


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