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つねに農家調査を大切にした
農業経済学の開祖、斉藤萬吉


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 福島県二本松市に長泉寺という寺がある。この寺の本堂向かって左奥に、植樹に囲まれ石碑が立っている。わが国農業経済学の草分け、斉藤萬吉(さいとうまんきち)の碑である。昨秋、 この碑をみたくて二本松を訪ねてみた。碑銘に刻まれた
「農学ハ舌耕ニアラザルナリ」の辞を、この目でみたいと思ったからである。

 斉藤萬吉は二本松藩士の子。幼時には戊辰の役の戦火に遭い辛酸をなめた。明治13年(1880)、駒場農学校農学本科を卒業、農芸化学科に進むが、翌年同級生数人とともに退学させられてしまった。 ちょうど駒場農学校がイギリス農学からドイツ農学へ転換した時期だが、彼らはこれに反対し、騒動を起こしたらしい。血の気の多い人だったのだろう。

 駒場を去った斉藤は郷里に近い郡山の開成山農学校で教師の職に就く。ちょうど猪苗代湖から安積(あさか)疎水が開通した直後で、開拓地にできた農学校は活気がみなぎっていた。 彼はここでみずから糞桶をかつぎ、鍬をふるい、若い農業指導者の養成に当たった。県勧業場(のちの農事試験場)長も兼任、さらに県内各地の農家を回り、実地指導に当たっている。

 郡山で16年を過ごした後、斉藤は翻然「()ガ学(いま)ダシ」の言葉を残し、上京する。 まずドイツ語を習得、ついで当時最先端とされたドイツ農業経済学を学んだ。農業経済学者斉藤萬吉の歩みはここからはじまった。

 明治26年(1893)、斉藤は駒場農学校の後身、東京帝国大学農科大学乙科(現在の東京農工大学)の助教授に就任する。農場主任として学生指導に当たるかたわら、農業経済学を教えた。

 明治32年(1899)には農商務省農事試験場の種芸部長に就任するが、ほとんど席にあることなく、各地の農村を廻り、農家調査に奔走した。つねに草鞋(わらじ)か下駄履きで、 着古した洋服に脚絆という彼のいでたちは、当時といえども特異の風体であったらしい。

 それまで翻訳紹介の域を出なかったわが国農業経済学が、この国の農業実態を映したものに変わった背景には、斉藤の力が大きくあずかっているといわれる。彼の農村調査はみずから足を運び、直接農家に会い、 経営状況を親しく聞きとるというものだった。つねに懐に50銭玉を入れていて、聞きとりが終わると、それを置いて帰ったいう。ちなみに当時の東京の蕎麦の値段は3〜5銭であった。

 特筆したいのは、彼の調査が明治中期から大正中ごろまで6回にわたり、全国28ヶ村・120農家を選んで定点的に聞き取り調査を実施したことである。わが国最初の農村調査報告といわれる名著『日本農業の経済的変遷』がそれだが、 この時期の農家経済を知る資料として高く評価される。彼が独力で築きあげたこの調査手法は農商務省に受け継がれ、わが国独自の農家調査として現在もつづけられている。

 大正3年(1914)、斉藤萬吉は調査旅行の途上で発病し、52歳の若さで急逝した。たいへん酒好きだったそうで、それも原因したのだろう。長泉寺で営まれた葬儀には 門下生など7000人が集ったといわれる。 彼がいかに多くの人に敬愛されていたかを示すものである。

新・日本の農を拓いた先人たち(16)農家調査を大切にした農業経済学の開祖、斉藤萬吉、「農学ハ舌耕ニアラザルナリ」 『農業共済新聞』2009年4月2週号(2009)より転載  (西尾 敏彦)


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