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昭和恐慌下の北陸稲作を支えた
石黒岩次郎の「銀坊主」


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 JR北陸本線の富山駅から西へ4キロほどの線路脇に、円盤状の石碑が建っている。水稲「銀坊主(ぎんぼうず)」を発見した石黒岩次郎(いしぐろいわじろう)を顕彰する碑である。 碑は自然石を積みあげた台座の上にあって、周囲を植樹で囲まれている。今夏を含め、わたしはここを2度訪問したが、いつもきれいに清掃されていて、感銘を受けた。先人を敬慕する想いが、今も受け継がれているのだろう。

 「銀坊主」は明治40年(1907)、当時婦負郡寒江村(現在は富山市)といわれたこの地の精農石黒岩次郎(いしぐろいわじろう)、 48歳によって発見された。発見のきっかけは彼の稲づくりの失敗にあった。じつはこの年、肥料のやり過ぎで、せっかく育てた「愛国(あいこく)」を全部倒してしまったのである。 だがこの失敗が、北陸の稲作を大きく飛躍させるきっかけになった。

 もともと石黒は自分で試験田をつくり、品種や肥料の試験をしてみるほど、研究熱心な農家だった。そんな彼のことである。よくみると、1株だけ倒れていない稲がある。しかも周囲の稲に比べ、 稈が太く穂数も多い。そこでさっそくこの株を持ち帰り、翌年試作してみた。

 試作した稲は「愛国」に比べ晩生だが、強稈で穂数も多く、多収であった。「愛国」は芒が赤いが、この稲は芒がなく、籾が白っぽく輝いてみえる。そこで「銀坊主」と名づけ、種子を近隣の農家に分けた。 明治42年(1909)のことである。「銀坊主」はここから農家から農家へと広まっていった。

 「銀坊主」はレンゲ後や湿田でもよく穫れた。昭和になって、化学肥料が出回りはじめると、多肥条件に適しイモチ病にも強いため、農家に好まれ栽培面積を拡大した。搗精歩合が高く、市場の評判がよいことも、 普及を後押しした。昭和初期といえば、農村恐慌が吹き荒れた時期である。それをしのぐのにも、この品種の果たした役割は大きい。最盛期の昭和14年(1939)には、北陸を中心に全国栽培面積が15万ヘクタールを超えている。 また日本統治下の朝鮮半島でもさかんに栽培された。

 「銀坊主」が好評だったのは、農家の間だけではない。試験場もこの品種を材料に純系淘汰を行ない、「銀坊主中生」「晩3号」「短銀坊主」などを育成している。

 昭和になると、品種改良では人工交配が主流になるが、ここでも「銀坊主」は交配親として重用された。このとき「銀坊主」を片親にして生まれた品種に、「農林8・13・15号」がある。 なかでも「農林8号」は傑出していて、その子孫からは「農林22号」「ササシグレ」「コシヒカリ」「ササニシキ」などの優良品種が生まれている。

 太平洋戦争後は、さしもの「銀坊主」も新鋭の人工交配品種「農林1号」に席を譲り、じょじょに姿を消していった。ただし中国の天津付近では、昭和30年代になっても「銀坊」などと呼ばれ、 広く栽培されていたという。戦争中に海を渡っていたのだろうか。

 大正12年(1923)、石黒は63年の生涯を閉じた。「銀坊主」が国内はもちろん、遠く朝鮮半島まで席巻する日がすぐそこにきていたというのに、早過ぎる死であった。

新・日本の農を拓いた先人たち(11)多肥条件に適し多収、昭和恐慌下の北陸稲作を支えた石黒岩次郎の「銀坊主」 『農業共済新聞』2008年11月2週号(2008)より転載  (西尾 敏彦)


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